

先日、町田市にある白州次郎(享年83歳)・白州正子(享年88歳)がかつて住んでいた家、「武相荘(ぶあいそう)」を訪ねました。
次郎、正子ともに、裕福な家に生まれ、次郎はイギリス、正子はアメリカに留学し、国際的な感覚を身につけた当時としては少々型破りな二人は、「野人」と「韋駄天」の世紀のカップルとして名を馳せました。
二人が住んでいた農家を改造したこの家は、文学、骨董の世界に精通し、後に染色工芸店まで営んだ正子のセンスにより、古民家がモダンさも感じられる「和」テイストでまとめられています。寛いだ雰囲気ながらも、ところどころに「光る」センスがあふれるステキな家で、近頃よく目にする「和」モダンな家の正に「さきがけ」といえる家です。
次郎は、得意の語学力を生かし、ジャパン・アドバタイザー誌の記者、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役、などの職に就きました。
仕事でイギリスに足を運ぶ中、当時駐英大使だった吉田茂と懇意になり、戦後吉田茂に請われてGHQとの折衝にあたり、日本国憲法の成立に深く係わりました。
白州次郎についての評価は様々で、私も実像をつかみきれずにいます。
世界でも例を見ない民主的な「日本国憲法」制定のために、ある程度の貢献をした、と評価する人...。しかし彼は結局は体制側の人間だったのではないか、と疑問を唱える人...。
ひと目見れば、ひとこと言葉を交わせば、誰もが「白洲党」になる、といわれる魅力的な人柄。
戦後、数年間の占領から開放されたサンフランシスコ講和条約を結ぶ際、吉田茂にGHQから渡されたのは英語原稿で、内容はGHQを褒めたたえるものだったことに白洲は怒り、書き換えさせました。そして、「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれました。
次郎は、「憲法はGHQにしてやられたが、今度はしっかり経済力をつけてちゃんと独立しよう。GHQから阻まれてきたが、真の独立を。そのためには経済力が必要だ」と考えたようです。
戦後、白州次郎は、終戦連絡事務局次長、経済安定本部次長、初代貿易庁長官などを歴任。
そして、日本は高度経済成長の道を歩み、経済発展を成し遂げました。奇跡の復興を遂げた日本...。しかし、その時には白洲は既に政界から去り、全ての公職からあっさり身を引いていました。「風の男」と呼ばれる由縁です。
その後、東北電力会長、軽井沢ゴルフクラブ理事、大沢商会会長、日本テレビ社外役員、など歴任しました。
GHQとの折衝に直接あたり、占領の屈辱を味わった白州次郎。
戦争の悲惨さはよく語られますが、占領の屈辱についてはあまり語られません。
白州次郎の言葉です。
「戦後とは、そうすぐには終わるものではない。新憲法もデモクラシーも、心から自分のものになった時、はじめて戦後が終わる。」
未だ戦後を生きているといえる屈辱的な私たちの状況を、
今、次郎が生きていたら、どう思うでしょう?
日本は相変わらず「真の独立」を果たしていない、と思うのではないかな...?
戦後60年以上たっても、いまだにアメリカの基地が張り巡らされているこの日本を、
自分が尽力した日本国憲法がすぐにでも改正されてしまいそうな危うい状況を、
彼はどう評価するのかな...?
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